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NHK ゆく年くる年 2019年から2020年へ NHK中継場所一覧

ゆく年くる年 NHK

成田山新勝寺(©NHK)

 

NHK ゆく年くる年 令和最初の「ゆく年くる年」

NHK ゆく年くる年

今年のゆく年くる年は、令和最初の大晦日、70回目の記念となるNHK紅白歌合戦が終わると、年の瀬の恒例となる「ゆく年くる年」の放送がはじまります。

今年は台風15号、19号で甚大な被害が発生した千葉県の成田山新勝寺をキーステーションに全国各地の中継が行われます。

明けた令和2年は、いよいよ2020東京オリンピック開催の年です。

 

「ゆく年」がどんな年であったのか心静かに振り返り、「くる年」への期待に思いを馳せる 1 年に 1 度の時間。

64回目の放送となる「ゆく年くる年」は、今年も各地の年越しの様子を生中継で伝えます。

今年は、あいつぐ台風で、日本は広範囲にわたる甚大な被害を受けました。

地球環境の変化で、今後も 災害の多発が予想される中、私たちひとりひとりの「協力」「協働」が以前にも増して必要とされているといえます。

しかし、今、「分断の時代」とも言われ、他者に対する「不寛容」が広がっています。

地域のひとびとのつながりや願いをお伝えしてきた「ゆく年くる年」。

今年は、その伝統に立ち返り、「つなぐ」をテーマに掲げ、時代や地域の絆を「つなぐ」人々の姿を通して、明日への希望を伝えます。

(NHK)

 

放送日時

■NHK総合

令和元年(2019年)12月31日(火)午後11時45分〜令和2年(2020年)1月1日(祝)午前0時15分

 

キーステーション

■成田山新勝寺
〒286-0023 千葉県成田市成田1番地

https://tv.unavailable.jp/naritasan-r2/
https://tv.unavailable.jp/naritasan-r2/

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令和元年から令和2年を迎える「ゆく年くる年」中継予定場所

都道府県 市町村区 中継予定地
北海道 上富良野町 北の大文字(きたのだいもんじ)
福島県 南相馬市 相馬太田神社(そうまおおたじんじゃ)
千葉県 館山市 布良崎神社(めらさきじんじゃ)
千葉県 成田市 新勝寺(しんしょうじ)※キーステーション
東京都 江東区 亀戸香取神社(かめいどかとりじんじゃ)
愛知県 名古屋市 東別院(ひがしべついん)
京都府 京都市 知恩院(ちおんいん)
奈良県 奈良市 薬師寺(やくしじ)
山口県 下関市 曹渓宗光明寺(そうけいしゅうこうみょうじ)
徳島県 吉野川市 山崎忌部神社(やまさきいんべじんじゃ)
福岡県 太宰府市 坂本八幡宮(さかもとはちまんぐう)

※全11箇所

※生放送のため、変更される場合があります

 

北の大文字・北海道上富良野町

日付 2019年12月31日(火)~2020年1月1日(水)
時間 23:30~0:30
場所 上富良野町日の出公園
北海道空知郡上富良野町東2線北27号
交通 JR上富良野駅より徒歩15分(タクシーで3分)
TEL 0167-45-2191 上富良野町商工会
料金 無料
駐車場 できるだけ乗り合わせ、徒歩でおいでください。
備考 暖かい服装で(ホッカイロなど必要)

 

相馬太田神社・福島県南相馬市

相馬氏累世の鎮守で相馬三社の一つ。毎年7月下旬に行われる国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」は三社(旧妙見社)が合同で行う伝統行事です。

元亨3年(1323)、相馬重胤が下総から下向、当地に館を構え、妙見を勧請したといわれています。

神仏分離令後の明治5年(1872)、妙見宮を太田神社と改称、妙見菩薩を医徳寺に遷し、祭神を天之御中主神としました。

昭和28年に相馬太田神社と改称。牛馬家畜の守護神として信仰されています。

■所在地
〒975-0052 福島県南相馬市中太田字舘腰143

■交通アクセス
JR常磐線原ノ町駅から車で約10分、常磐自動車道常磐南相馬ICから約10分

 

布良崎神社・千葉県館山市

元々は布良の家なみの中にあったが、1703年(元禄16年)11月23日に大地震で起きた津波のため流失、1876年(明治9年)11月11日の布良川大火で焼失、1879年(明治12年)10月3日に台風のため倒壊など、災害が相次いだ

度重なる災害により遷座を決定。1880年(明治13年)6月に社地整備を起工し、1882年(明治15年)9月に竣工した。その後、社殿造営の計画を立て、1907年(明治40年)3月22日に普請を開始、1908年(明治41年)7月31日に落成した。現在の社殿はこれにあたる

2019年(令和元年)の台風15号の影響は大きく、拝殿は傾き、神輿蔵の倒壊や神輿2基が大破する大きな被害が出た。これに伴い、布良崎神社がある布良地区の有志が神輿の修復委員会を立ち上げ、4000万円の寄付を募ることとした

■所在地
〒294-0234 千葉県館山市布良379

■交通アクセス
JR館山駅からJRバスで25分

 

成田山新勝寺・千葉県成田市

真言宗智山派の仏教寺院であり、同派の大本山の一つである。山号は成田山。山号を付して「成田山新勝寺」、あるいは山号のみで「成田山」と呼ばれることが多い。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期の天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。

参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、社寺としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、寺院に限れば全国第1位の参拝客数である。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。成田国際空港に近いことから、外国人観光客にも人気がある。

■所在地
千葉県成田市成田1番地の1

■交通アクセス
成田山新勝寺への交通のご案内(公式)

 

亀戸香取神社・東京都江東区

亀戸は元々亀の形に似た島であり亀島あるいは亀津島と称されていたという。

665(天智天皇4)年、藤原鎌足が東国下向の際、この亀島に船を寄せ、旅の安全を祈願し香取大神を勧請、太刀一振を奉納したのが創建とされる。その後、平将門の乱が起きた際には、俵藤太秀郷が当社に参籠して戦勝祈願を行い、平定後弓矢を奉納、勝矢と命名したとされる。

この古事に因んだ勝矢祭が毎年5月5日に執り行われている。

1697(元禄10)年検地の際には、改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられた。

明治に入ると、1872(明治5)年11月16日には村社に列せられる。

1945(昭和20)年3月9日の空襲で社殿を焼失するが、1948(昭和23)年に再建した。

■所在地
〒136-0071 東京都江東区亀戸3丁目57−22

■交通アクセス
JR総武線、東武亀戸線 亀戸駅より徒歩10分

 

東別院(真宗大谷派名古屋別院)・愛知県名古屋市

真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如。

通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。

元禄3年(1690年)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された。尾張国の6つの寺が、この地に布教の拠点を置くことを本山に願い出たが、当初は他の寺から猛反対を受けた。

文化2年(1805年)、五代惣兵衛が本堂を再建した。惣兵衛はこのためだけに真宗へ改宗し、さらに本山である東本願寺に多額の寄進をしたことにより、使用する材木の調達を一手に請負うことに成功。

文政6年(1823年)、新たな本堂が竣工した。この年、本山の御影堂と阿弥陀堂が焼失。緊急の措置として、別院(当時の呼称は「名古屋御坊」)の古御堂が東本願寺の本堂とされた。

明治期には、愛知県庁や愛知県議会の機能が同地に設置された。

明治7年(1874年)5月1日から6月10日にかけて開催された、「名古屋博覧会」の会場としても使用された。同博覧会では名古屋城天守の金鯱や地元の名産が展示され、好評につき、当初5月31日までの予定であった会期は10日延長された。

昭和20年(1945年)3月12日、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失した。現在の本堂は、戦後再建されたものである。

■所在地
〒460-0016 愛知県名古屋市中区橘2丁目8−55

■交通アクセス
東別院・交通案内(公式)

 

知恩院・京都府京都市

知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。

知恩院境内は下段、中段、上段の3段に整地されており、本堂はそのうちの中段に南面して建つ。寛永10年(1633年)の焼失により、寛永16年(1639年)に徳川家光によって再建。宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれる。

徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年、三門とともに国宝に指定されている。

■所在地
〒605-8686 京都府京都市東山区林下町400

■交通アクセス
浄土宗総本山知恩院(公式)

 

薬師寺・奈良県奈良市

興福寺とともに法相宗の大本山である。

開基は天武天皇。本尊は薬師如来。南都七大寺のひとつに数えられる。

1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。

■所在地
〒630-8563 奈良県奈良市西ノ京町457

■交通アクセス
奈良薬師寺へお越しの方へ(公式)

 

曹渓宗光明寺・山口県下関市

曹渓宗は韓国に本拠地を置く仏教教団。

今回のNHKゆく年くる年の中継地として公表されているが、詳細不明のため調査中。

 

山崎忌部神社・徳島県吉野川市

式内社(名神大社)の論社で、旧社格は村社(一時国幣中社)。

地名の「山川町」は麻植郡山瀬町と川田町の合成地名である。

『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。

社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。

明治3年(1870年)村社に列したが、近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、五所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社である。

徳島県吉野川市山川町地区の山崎忌部神社で10日、11月にある皇位継承の重要祭祀「大嘗祭」で献上される麻織物「麁服(あらたえ)」の織り初め式が開かれた。麁服は10月中にも完成予定で、皇居に納められる。

式では、地区にゆかりのある女性7人がみこ姿で作業に着手。機織りは10月中旬ごろまで続き、約4反分の麻布を織り上げる。

使用する麻糸は、同県美馬市木屋平地区のNPO法人「あらたえ」が県から特別な許可を得て、4月に種をまいて栽培した大麻の繊維から糸車で約1カ月かけて紡いだ。

山崎忌部神社は、古代から麁服を調達してきた阿波忌部氏が拠点を置いたとされる。(産経新聞 2019/9/10 11:14)

■所在地
〒779-3402 徳島県吉野川市山川町忌部山14

 

坂本八幡宮・福岡県太宰府市

登記上の宗教法人名称は八幡神社(はちまんじんじゃ)。

元号「令和」のゆかりの地とされる。

現在の坂本八幡宮の周辺は、奈良時代の大宰帥・大伴旅人の邸宅の所在地であるとの説がある。

神社の創建については、天文・弘治年間に勧請されたと伝えられるものの、その由緒は明らかになっていない。

『圓満山四王寺縁起』によれば、平安時代である弘仁2年(811年)、四王寺山にあった「四王寺」の座主坊として、この坂本の地に「善正寺」という寺が成立した。「善正寺」は天台宗に属し、九州の天台宗の寺院は八幡宮を境内に祀っていることが多かったため、「善正寺」にも八幡宮が祀られたと考えられる。

「武藤少弐氏系図」によれば、少弐氏滅亡とともに「善正寺」は廃れたといわれる。そののち、境内にあった八幡宮だけが村の鎮守として再興されたと推測される。

明治5年(1873年)、近代社格制度において村社に列した。

2019年(平成31年)4月1日、「平成」に代わる新元号「令和」が発表された。「令和」の典拠は、『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序」にある一文であり、その歌会の開催地は大宰帥・大伴旅人の邸宅である。

戦後間もない頃から、坂本八幡宮の付近にはかつて大伴旅人邸があったと通説のように語られていた。この説はのちに九州歴史資料館の現地調査によって定説的地位から後退したが、「令和」発表直後に中央メディアなどが今も有力説のように報じたため、新元号ゆかりの地として一躍脚光を浴びるようになった。以前の参拝者は1日あたり20人ほどだったが、「令和」発表直後には3000人に急増したという。

※実際の大伴旅人邸は別の場所とする説
戦後間もない頃、竹岡勝也(九州大学教授)が、坂本八幡宮の周辺の台地にかつて大伴旅人邸があったと考えられなくもない、と言及した。これが発端となり、坂本八幡宮が大伴旅人の邸宅跡であると通説のように語られるようになった。

昭和61年(1986年)、この説を検証するため、九州歴史資料館(九歴)による坂本八幡宮付近の発掘調査が行われた。祭祀用とみられる土製馬形「土馬」などが出土したものの、8世紀前半の建物遺構は検出されなかった。このため当時の九歴は、坂本八幡宮付近は違うと判断している。坂本八幡宮の真下は発掘調査が行われていないため、坂本八幡宮にあった可能性が完全に消えたわけではないが、坂本八幡宮付近が邸宅跡であるとする説は長年の通説的地位を喪失した。

現在、坂本八幡宮付近に加えて、政庁東側に位置する月山東地区官衙跡と、政庁南側に位置する条坊跡周辺(現・榎社周辺)の3か所が、大伴旅人の邸宅跡の可能性がある土地として指摘されている。赤司善彦(大野城心のふるさと館館長)は、奈良時代の「玉石敷きの溝」跡などを根拠に、政庁東側の月山地区にあったのではないかとする説を唱えている。

■所在地
〒818-0133 福岡県太宰府市坂本3丁目14−23

■交通アクセス
西鉄大牟田線「天神駅」より「都府楼前駅」下車 徒歩16分

 

author Akira.S,Unavailable Press Japan

 

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